私は私じゃい!!!!!!

大学4年生。私は私じゃい!!!のマインドで思っていることを書きます。 今が人生の分岐点な気がしている。

大学で何してたっけ・その1【留学】

あれ、私、大学でなにしてたっけ…となっているので
振り返って整理して、今とのつながりの発見と自分のこれからを考えるために書くよ。

 

はい、では行きます。

大学で何してたっけ…もくもくもく……

 

 

私にとっての留学、その位置づけ

大学生活を振り返る中で一番はじめに出てきた単語は、「留学」

これについてあまり自信を持って語れないので、一番はじめにこの単語が出てきた自分の脳に正直驚いている。
実は、自分の主体的な活動という点においては自慢できることがあまり無い留学だった。しかし、受動的な経験とそれにより抱いた思いによって、留学以降の私の中の”価値観”は変化した。

 

私は、留学を通して「街とそこに居る人々の遊び心」に感銘を受けた。
「その場所らしくある」ことへの関心を抱くきっかけとなった。
らしくあるためにはどのような考え方が人々にあるべきなのかを考える中で、広い意味での「認め合いの価値観」を持つようになった。

 

残念な留学の理由

留学に行った理由は、大学卒業のために留学が必要だったから。全く立派ではない理由だ。

在学している大学は、将来を考える余裕のなかった高校時代の私(参照:はじめての自己開示・その2【高校での評価基準】 - 私は私じゃい!!!!!!が、よくわからずに(周囲の目を基準に)第一志望の国公立大学のすべり止めとして受験した大学だ。この大学にはどうしても留学に行きたいというような人が集まる傾向があるが、私は全くそういういわけではなかった。あの時の私には、留学に行く理由が見つからなかった。

そんな奴が、留学に行って感銘を受けた!!!なんて語っているの、かっこ悪いね…。だけど、そんな心持ちだった私でも、留学の経験は自分の中で重要な位置につく経験となった。

 

今になって分かることだが、生まれてからずっと日本のごく一部でしか暮らしたことがなく、海外のルーツを持つ人との交流も全くなく、入ってくる情報も日本のものしかないと、”自分以外”を知った時の革命的な気づきが存在することにさえ気づけない。大きなお金をかけて海外に赴いてまで体験すべきことなのか疑心暗鬼になり、結局はやめておこうと結論づけてしまう。

第一志望に落ち、予定の2倍ほどの学費を払わなくてはならなくなったが、留学を半ば強制的にでも経験させてくれる環境に身をおけたことはラッキーだった。お父さん、お母さんありがとう。。。

 

異国の地に身を置いて感じたこと

では、実際にどのような留学だったか。

私は、カナダ東部の小さな町の大学に3カ月半の語学留学をした。
ほとんど初めての海外。英語力にも自信はない。日本人同士で寮に入り、日本人と一緒に授業を受けるという安心安全プログラムを選んだ。

 

夏が訪れる少し前から、もう少しで秋になるまでの期間。カラッとした暖かな気候で、カナダで一番過ごしやすい時期だ。気持ちいい太陽が降りそそぎ、植物たちが花を咲かせ始め、人間も生き生きしていた。この季節が待ち遠しかったカナダの人々は、気温20度でも半袖だ。私も開放的な気分になった。
コーヒーを片手に近くにある湖の散歩コースを歩き、キラキラと輝く湖をカモがのんびりと泳ぐのを眺めながら、すれ違った犬連れの優しい婦人に挨拶する…。そんな日常。

 

留学先は大学中心の町で、教員と学生が住民のほとんどだった。
大学には様々なバックグラウンドを持つ人たちが集まっていた。短期や長期で留学している人、カナダ国内から大学に通うために出てきた人、親の世代で移民として引っ越してきた人、ずっと前の祖先が移民だった人。
大学に芸術学部が設置されている影響か、町には美術館やアトリエが集まり、音楽イベントも多く開催されていた。

 

これらを踏まえ、私が感銘を受けたポイントを紹介する。

 

1、Farmers' Market

毎週土曜、朝9時から正午まで開催されているマーケット。地元でとれた食材をはじめ、インド料理や中華料理、自家製のパンやクッキー、しぼりたてレモネードなどが並ぶ。食べ物以外にも、お手製のセーターやアクセサリー、ハンドソープなど、職人技の光る雑貨が売られている。ぜんぶおいしいしぜんぶかわいい。子どもから年配の方まで幅広く集まり、毎週活気にあふれていた。同時に音楽会や子ども向けのイベントが開催されることもあった。

モノと対価の取引を超えて、あらゆる世代と人種が積極的に交わろうとする理想的なコミュニティー形成の場。全員の顔が明るい!最高!

  

2、街中の遊び心

歩いているだけで心躍る工夫が所々に施されていた。大学の寮からダウンタウン(といっても規模は小さいけど)までの道に並ぶ植木鉢には、とてもセンスの良い配色の花々が植えられていた。ふと上を向くと、街灯にもお花が吊り下げられている。・・・かわいい。バイクスタンドはバイクの形。カモの模様の横断歩道。LGBTQへの理解を示したレインボーの横断歩道。私は見られなかったが、道路にペイントするイベントもあったらしい。楽しい!!!

 

3、お店のバラエティー

ダウンタウンにあらゆるお店が集まっているが、小さな町にもかかわらずバラエティーに富んでいた。チェーン店は、スーパーマーケットとドラッグストア、1$ショップくらいだったと思う。移民たちによって経営される様々なジャンルの飲食店が並ぶ一方で、自家製のアイスクリーム屋さん、自分で育てた野菜を使った料理を提供するカフェも。集まるお店の数が少ない中、めちゃくちゃ可愛い雑貨屋さんもある。緑の建物のお花屋さんはマグカップやぬいぐるみなども売っている複合的なお店だったが、店全体にラブリーな統一感があった。そこにしかないお店!という感じ。系列店であふれている日本では感じられないワクワクだ…と思った。同じような雰囲気を大量に摂取させられる日本のお店では、なんだか思考力が奪われてしまうな…。

 

4、閉店時間

都市で暮らしてきた日本人からすると、閉店時間がめちゃくちゃ早い。しかし、人々がその閉店時間でも無理なく暮らせるということに私は着目したい。カフェは6amに開店、4pmに閉店。カフェ以外の飲食店も8pmには閉店。スーパーマーケットも8pm閉店。なんと日曜は4pmに閉店する。Holidayはどこに行っても開いていない。夜中に開いているのは、日常生活から離れるためのバーやクラブのみ。全員が自分の余暇の時間を持っていて、好きなことをして過ごす時間がたっぷりあった。これがベースの社会だからこそ生まれる、色とりどりのクリエイティビティだ…と思った。

 

 

 

 

 

 

これらのいいな~と感じた部分がなぜカナダ(の、この町。一概にカナダ全体では語れないとは思っている)では成立し、日本では成立しないのか。「多様性への寛容さ」の有無が根底に存在するのではないか。

 

行動したことと言えばブラブラ歩いただけだけど、留学以前にも感じていた日本の閉塞感に対して向き合っていく材料を得られた、意味のある留学だったと思っている。

加えて、たくさんの刺激的な(広義での)デザインを日常的に目にして、アートやデザインを通して人に自分の意見を感じとってもらうことへの関心のきっかけとなった留学でもあった。

 

まとめると、

・自分らしく日々を楽しむカナダの人たちを見て、

・自分が感じていた日本での生きづらさを確信し、

・日本における人々の価値観の拡張を目指したいと思った。

・加えてそれを、アートやデザインを使って実現させたい。

 

 

 

はじめての自己開示・その4【家の中は見えない】

ちょっと重くて書くのがしんどい家族の話をする。
心に切り傷をつけながら書いた。

 

上手くいかなかったり、自分へのもどかしさを感じる度、思い出すこと。
思い出したくなくてもフラッシュバックする。トラウマってやつか。

 

私は生まれてこの方、父・母・私の3人で暮らしてきた。
そんな3人のバランスの崩れを私が感じ始めたのは、私が小学3~4年生の頃だった。


まず、優しく厳しく凛としていた母が、何もしなくなった。別人のようになった。「もう何も教えんで大丈夫やねん」と私に言い、一日のほとんどを布団で過ごすようになった。確かに育児に力を入れる時期は過ぎたのかもしれないが、私は母の以前とのギャップに不安になった。母は、元の自分に戻ったのだろう。ただ、そんな母の元の姿は、擁護しがたいほど傍若無人だと私は思った。(具体的に母がどんな性質かは省略する)

 

そんな母の変貌ぶりを見て、父が怒った。
なぜ父に怒りが湧いたのか。その発端を私は知らないが、おそらく家事が行き届いていない家の様子を見て憤慨したのだろう。父の仕事の帰りはいつも23時頃だった。疲れて帰ってきた父がぐうたらな母に怒ったと私は見ている。

 

父と母、お互い不満が募り始めた。
母は、私に「お父さんは何も家事せえへん」と言う。父は、私に「あの人(母)は(人間的に)あかん」と言う。一人娘なので、私を味方につけたかったのだと思う。しかし、私はどちらにも肩入れできなかった。どちらも悪い、お互い様だと思っていた。そんなことより私の感情を大きく占めたことは、「なんでそれを私に言うの?」だった。私が苦しくなるだけで、問題は何にも解決してないじゃん。
私は2人の逃げ場であり、感情の捌け口サンドバックだ。
あ~~痛いな・・・

 

ある日、母が夜遅くまで帰ってこなかった。時刻は23時をまわっていたと思う。小学生の私は、一人で母の帰りを待っていた。いつもならとっくに晩御飯も食べて眠りについていたと思う。遅くなるなら何か言っておいてくれれば一人でご飯の準備もするのに… 遅いな…。私は布団にもぐりこんだ。

ガチャンと扉の開く音がした。先に帰ってきたのは運悪く父だった。ああ、最悪だ。父が激怒してしまう。怖い怖い怖い。父は私に聞く。「おかんは?」「ごはん食べたんか?」

母はその数十分後にケロッと帰ってきた。母が何をしていたか私は知らない。
このあと私はすぐに寝たので、このあと両親がどうしたのかはわからない。

 

 両親の間のひびは、長い時間をかけながら次第に深まっていく。

 

ある時、ついに父は母に手を出した。
母へのイライラが物理的な暴力となって出てしまった。私はその光景を直視できなかった。私は逃げるようにお風呂場に行き、シャワーを浴びたと思う。
あとで母は私に「お父さんに首しめられたねん」と言ってきた。

 

深刻な喧嘩が勃発して、怒鳴り声や喚き声が家中に充満した時、私はトイレの鍵を閉め、閉じこもり、耳をふさいで一人で泣いた。いつも一人で泣いた。私はどうすればよかったのだろう。二人の間を取り持つには、小学生ひとりには荷が重すぎた。

 

その頃、母はよく私に「あんたがおるから離婚してないだけ。あんたがおらんかったら離婚してるわ」と言っていた。私としては、「そんなに精神的に苦しいならさっさと離婚したらいいやん、貧しくてもそれで今より自由に生きれるのならその方がいいやん」と思っていた。私がいるから離婚できないという論調に悲しくなったし、腹も立った。離婚できなくて苦しいことを私のせいにしないでほしかった。こういうことを言わない分、私は父の方が好きだ。

 

私が小学6年~中学1年くらいの時、母の部屋からすすり泣きと誰かに電話する声が聞こえてきた。電話の相手は母の母だった。
「わたし何回コードで首しめようとしたか・・・!」
母が何度か自殺未遂をしたという内容だった。私はその声を自分の部屋で聞きながら、何もできずにいた。

 

そういえば、小学生の頃は晩御飯をほとんど一人で食べた。
太ってたらみっともないという父の発言を受け、母はダイエットをしていた。
そのため母は晩御飯を食べず、私が食べている間はいつもキッチンを片づけていた。父は帰りが遅く、食べるタイミングが合わなかった。よって私は毎日ひとりで食事をした。

たまに3人で食べる機会があったとしても、私は食卓に流れるギクシャクを敏感に感じとってしまう。涙をこらえながら食べるので、せっかくの料理も味はしなかった。

笑ってごはん食べる家庭がよかった。

 

話を戻す。
私の問題は、苦しみを抱えながら誰にも相談できなかったことだ。
家庭内の不穏な雰囲気は私が小学3,4年~高校1年の時まで続き、1~2カ月に1回のスパンで1週間程度の怒鳴り合いの喧嘩が発生していた。何度か学校の先生に相談しようか迷った。しかし、その度にいつも「しばらく経てば納まるから大袈裟にするのは良くない」と思い直し、誰にも言わなかった。「他の家庭でも普通に起きていることかもしれないし、そんなことで相談できない… 私が過度に反応しすぎているだけかもしれない…」という考えに入っていた。相談しなきゃそれも分からないのにね。私は一人で苦しんだ。

 

私が高校2年の時、父は単身赴任に出た。びっくりぎょうてん、その間に両親の関係は劇的に改善した。母は父がいなくなったことで健全な精神を取り戻した。父は一人暮らしで家事の大変さを知ったのか、母への理解を態度で示すようになった。なんと、毎週末2人で旅行に出かけるまでになった!

よかったよかった・・・・♡♡♡

 

 

じゃあないんだよ。

 

私の気持ちの回収が全くもってなされていない。
板挟みサンドバックの苦しみが、誰にも相談できず一人で泣いていた痛みが、
ぜ~~~~~~んぶ 無かったことになって、2人だけ仲良しこよし!?

そんなことあってたまるかよ!
健全な家族で健全な心を育めなかった弊害が私に残ってるんだよ!
人は怒ったら猛烈に怖くて何をしでかすかわからないことがわかったので、自分の気持ちをあまり人に表せなくなった。両親の変容を見て、人を信じられなくなった。まあ元の私の性質もあるんだろうけど。ときたま最悪を思い出して、非常に陰鬱な気分になる。

 

両親にこの話を今更持ち出しても、私の記憶と傷は消えないのであまり意味がない気がする。だから、私はこの心理的痛みと最悪な記憶から精神を分離させて、私は私にとって意味ある時間を過ごすぞ☆彡

まあ腹立つけど!!!この問題を両親と本気で向き合わない限り、2人への心からの感謝の言葉は出ないけど!!!2人の好きなところも全体の2.5割くらいあるから辛い!!!

 

 

 

 

【サンドバックの追記】
父の実家に泊まった際、昼になっても起きてこない母を受け、父方の祖父が私に向かって「あの人はダメだわ」と言った。私は傷ついた。そちらからしたら私の母は他人だが、私にとっては何がどうなってもお母さんだ。それを小学生の私に言ったところで、私が傷つくだけ。私が苦しくなるだけ。あ~お前も、

私をサンドバックにすんな

クソヤローーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!

 

 

 

 



はじめての自己開示・その3【自分の House】

時にはあきれられるほどの、将来に対する非常に突発的で現実味のない私の自由さは、帰らないといけない家(house)がないということに一つの原因がある気がしている。

 

私の家は、どこにある?

 

何年も前に住んでいた土地に訪れて、住処に面影がなくなっていて感傷に浸るみたいな構成の番組や物語はよくある。場所への思いは、普段意識していなくても、言動の端々にあらわれるものだ。故郷の意識は、思っている以上にその人間の行動様式に影響を与える。

 

進学、就職、結婚、育児。生きていく中で選択をする際、私たちは場所のことを考えずにはいられない。

 

私には、どこかに「行く」「戻る」というプログラムがセットされていない。
私は、自分のマインドの上では、どこにでも行けてしまう。

 

私は転勤族だ。

私は、両親の出身地である奈良で生まれた。生後半年で、愛知へ引っ越した。

愛知県の幼稚園に入園し半年で、石川県へ引っ越した。ちなみに、ここまでは聞いた話で、記憶には無い。

石川県では、小学5年生まで過ごした。約8年間生活した賃貸マンションを離れる時、それはそれは悲しかった。空になったマンションの風景を今でもはっきりと覚えている。6分の5のおもいでの詰まった卒業アルバムはもらえなかった。

次は、兵庫県の賃貸マンションに引っ越した。兵庫6年目の夏、高校2年生の時、父は兵庫に家を買った。今もそこに暮らしている。現在兵庫県に来て11年目に突入し、人生の半分を超えた。

奈良には、私が中学生の頃まで、年に2回 ”帰って” いた。奈良は両親の帰る場所だ。奈良には、両親が結婚した際に購入した”マイホーム”がある。
my home は who's home?house があるから そこは home?
…このあたりが曖昧なのだ。少なくとも私は、気持ちの上で奈良は故郷とは言えない。

両親が購入した家は計2軒。兵庫の家は、将来的に売るそうだ。よって、兵庫県にも私の帰る家は存在しなくなる。

 

物的にも帰る家はなく、質的にも帰りたいと執着する場所がない。また、自動的に帰るべきとされる場所もない。

 

だから、私はどこにでも行けてしまう。精神的にとてもフリー。両親は、奈良が自分たちにとっても私にとっても帰る場所だと思っているようなのだが、そんな契約交わした覚えはない。
だけど、私は自分がどこに行けばいいかわからなくなる時もある。

 

 

私の家は、どこにある?
私の家は、どこにでもある。

 

 

はじめての自己開示・その2【高校での評価基準】

あの時、気づけなかった自分に責任があるのか?

 

私の通っていた高校は、その地域では偏差値トップの自称進学校。”国公立進学主義”を貫き、”文武両道” を掲げるという進学校(仮)の特徴をきちんと持ち合わせていた。

 

当時、自分の核がこれっぽっちもなかった私は、地元の公立中学校から ”行ける範囲内” で一番 ”頭の良い” 高校に入学した。

 

勉強と部活動は衣食住と同列。

私は、入学と同時に学校の王道に乗った。国公立大学を目指し、受験勉強に励んでいた。大学受験で必要な科目のうち、現代文古典漢文英語歴史倫理政治経済生物地学は、センター試験で8割ほど取れた。

 

問題は、数学だった。どれだけ時間を費やしても、成績は上がらなかった。高校3年の定期試験では50点満点中1点をとった。しかもこの1点、あてずっぽうの1点。学内成績は下から数えた方が圧倒的に早かった。
勉強の仕方がよくなかったのか。素質がないにも関わらず、あがいていたのか。おそらく両方なのだろうけど。第一志望の大学入試は、数学の二次試験で一問も解けず終わった。私は、文系の私立大学に進学した。

 

私は、ただ数学の才を使って生きる人ではなかっただけなはずなのに。当時の私の脳内では、国公立に行けない=頭が悪い という強烈な図式が成り立っていた。この図式に囚われてすぎていたため、あるはずだった自分の可能性を閉じ込めてしまった。数学に費やしていた時間を、何か他のものに充てられたはずだ。違う世界に目を向けるチャンスを得られたかもしれない。
((( あの図式が全く真理ではないことに気づけなかったお前が悪いんだろう?やりたいことがある人は、その道に向かって自発的に動いている。数学をやらない選択肢を選んだところで、当時のお前が能動的にやりたいことがあったか? )))

 

 私は、部活動でもやはり王道に乗った。中学校でたまたま入った部活動が非常に厳しかったため、私には熱血魂が刷り込まれていた。部活動を全力でやる人間がかっこいいと思っていたので(ここには部活動を怠ける学生よりも自分は優位に立っているという醜い認識も含まれていたが)、私は学内で一番活動が厳しいとされる野球部に、マネージャーとして入部した。

 

ここで、部活引退までの私の一日。

6:30:起床。風呂に入る。

6:45:自転車で学校へ(全力の爆走。ここで髪を乾かす)

7:00:学校到着。グラウンドをダッシュして部室に行くのが決まり。朝練開始。

8:00:朝練終了。部室から教室まで歩いている間に朝食。

8:25 ~ 16:30:授業中、次の授業の課題を終わらせるため内職。

16:30 ~ 19:00:部活動。マネージャーの職務を全う

19:30 ~ 23:00:塾の自習室で課題、テスト勉強、東〇ハイスクールの授業を受けるなど。気づけば爆睡。(何度肩を揺らされても起きず、ガチで心配されたことがある。)

23:20:帰宅。制服を着たまま、晩御飯を食べながら爆睡。リビングまでたどり着けず、何度も玄関で寝た。

 

自分を見つめる時間のないままこの生活を繰り返していたある時、私は心を病んだ。(病んだ原因は色々あるので、それは追々・・・)
部活動の最中、立っているだけでなぜか涙が出てくるという現象が起きた。心が無だった。自分の存在価値が見いだせなくなった。外界の出来事への反応が薄くなった。笑えなくなった。心が冷たかった。あ~、これが鬱ってやつか…

 

私は、自分のために使う時間を十分にとるべきだった。
しかし、私は部活動を辞める、または肩の荷を下ろして活動するという選択肢を持つことができなかった。
理由は2つ。ひとつは、周囲(学校の先生やクラスメート、部活動の仲間)からの評価が大きく下がってしまうことを恐れていたから。もうひとつは、「途中で辞めたら失礼」という母の言葉があったから。後者もまあ、母からの評価が下がるという点で同じ理由に行きつくのか。

 

私は、辞めることが評価される尺度があることを知らなかった。野球部を選んだのは、一番厳しかったからであって、野球を愛して活動する部員との心のギャップは埋められなかった。自分を偽り続けていた。あの時、自分の苦しみを肯定して、自分が好きなことへの接点を持つことのできる場を探せばよかった。

 

 高校時代の私は、ただ毎日を生きていただけ。息をしていただけ。勉強と部活動に取り組むことは、衣食住と同列のもの。明日のために食いつなぐのに精一杯、今を生きるのに精一杯。未来のことなんて、考える余裕はなかった。

 

   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

世界の広さに気がつけなかったのは、私のせいでしかないのだろうか。
評価される尺度の多角性に気がつけなかったのは、私だけの責任なのだろうか。

 

学力だけを測る偏差値トラップに引っかかり、私は頭の良し悪しの本質を見誤っていた。そのような尺度しかないように見せかけた、学校の評価基準を見直す必要があるのではないか。 

 

 

 

 

 

大学生活を通して、ゆっくりじっくり自己に向き合ってきた。大学も終盤にさしかかり、やっとこれから、自分のやるべきことに自らの意思で進む。

 

はじめての自己開示・その1【人間とのかかわり】

ブログを書くにあたって、 自分だけがもっている”有益な”情報など無い。私は私の内側を開示するほか、自分らしいことは何も持ち合わせていない。

 

私は、周囲に興味を持つことが自分にとって”害”になると教えられてきた。それが母のとっておきの教え。

 

他人のいざこざには入っていくな。他人の悪口は言うな。とぼけたふりをしておけ。

 

どこからどこまでが他人で、どこからどこまでが悪口かを理解していなかった幼い私は、ひたすらにとぼけることを続けた。とぼけた自分が ”演じられた自分” なのか "本当の自分" なのかの区別もついていなかった。とにかく、とぼけると母は「それがあなたの良い所」だと褒めるので、とぼけることを続けていた。

 

そうしているうちに、周囲について何も考えずに生きることが得意になっていた。母によると、何も考えなければ、人間関係で困ることはないはずだった。

 

他人の何気ない言葉に気をもんだり、学校内の無意味な派閥闘争に心を痛めることもなくなる。中立を保つことができる。誰の敵でも見方でもない。曖昧にしておけば闘わなくて済む。いい意味でとてもフリーだった。

 

しかし、人間関係という超難題の練習問題を解いてこなかったということが、自分に巡ってくるはずだったチャンスを遠ざけてきたのではないか。21歳、社会に出る目前で、やっと分かったヒト科の繁栄方法。

 

人間関係を築く=この社会で生きるということ

 

ひとのためにいきていなければ、いきているいみはない???

ということが、最近の気づき。

 

そうじゃないと言える解を持っている人もいるのだろうが、少なくとも、「ひとのためにいきていなければ、いきているいみはない」が成り立ついまの社会システム。

 

他人からの好意をスルーしたり、大人数での話題に入っていけなかったり(いかなかったり)、共有したい情報や感情が全くなかったりしてきた。

 

何が苦しいかというと、自分のしてきた周囲とのかかわり方は自分を守るためのものであったはずなのに、そうして鍛えられた人間への執着のなさは、本質的に役に立たなかったということ。テスト勉強を一生懸命してきたのに、出題範囲を間違えて勉強してたみたいな感じ。

 

 

 

 

私は、ちゃんと社会の成員になりたい。