はじめての自己開示・その6【他者から見た自分は自分?】
見えない規範に従って
規程された見た目
そんな外面で判断されて
自分じゃないなと思ってた
見た目や属性のイメージと、中身とのギャップについてのお話。
私、過去と今
「あいつ、あんなことするタイプやったっけ」
大学3年のゴールデンウィーク、久しぶりに会った高校で同じ野球部(私はマネージャー)だった男の友人が、私を見て放った言葉だ。高校時代の友人何人かと外を歩いていた時、気になる店の看板があったので、私は集団を離れて見に行った。この些細な行動から、彼は今の私が高校時代の私とはどこか違うと感じたらしい。
彼の言葉は、過去の私が見えない規範に固められていたという事実を、今の私に突き付けた。
私の見た目に合う中身
はじめての自己開示・その5【教授の洞察】でも少し述べたが、私は清楚で従順で無垢な女の子の立場を中高で確立していた。これは、私の見た目が幼くかわいらしい感じだったことにより規定された振る舞い方だったと考えている。事実、モテたり、良い成績もらえたり、周囲から一目置かれたりと好都合なことも多かった。だからこそ私は、何の疑念もなくそれを自分の一面と把握していた。私は人生という長い年月をかけて、自分の見た目と中身を無意識的につなげるように振る舞う術を身につけたのだ。
極限のマネージャー
高校の部活動でマネージャーというポジションを選んだのも、このような自己認識とマネージャーのイメージに影響されたのだと思う。事実、今の私を知っている人は、私がマネージャーをしていたと言うと、ちょっと想像できないと言う。
マネージャーのアイデンティティ取り入れによる「自己固め」は、それまで固められ続けてきた「形」に抵抗し、反発する契機となった。私にも、さすがに我慢の限界が来た。
マネージャーとして選手のサポートに徹する毎日。本当に私がやる必要があるのか?という雑務をこなし、野球部マネージャーとしての自分の存在意義がわからなくなってしまった。親父気質の監督たちにとって気持ちいい言葉を上手く投げかける子の方が重宝されるのも居心地が悪かったし、時にただ女性として搾取さることも気に食わなかった。
「このまま、見た目に合った自分を続けると、”自分”が死んでしまう。」
だからと言って当時の私にはマネージャーを辞める勇気もなく、無の気持ちで引退まで続けたのだが。大学に入った私は、しばらく過去の自分に引っ張られていたのだが、最近になってようやく”自分”を出せるようになってきた。
ギャップを自覚し、思うこと
自分の外面に規程されたイメージに内面を無意識的に合わせた結果、周りが自分に対して抱くイメージと本当の私の溝がどんどん広がっていった。
見た目と心の性が合致しない人の感覚もこのような感じなのだろうかと想像する。人種に対する偏見も、苦しみの構造は同じなのだろうと思う。私の何倍も何十倍も苦しいギャップなのだと思う。だけど、少しでも重なる部分があるのなら、このギャップによる苦しみを知る者として、理解を示す行動をとっていきたい。
結論、イケてる世の中にしたい~~~!!!