私は私じゃい!!!!!!

大学4年生。私は私じゃい!!!のマインドで思っていることを書きます。 今が人生の分岐点な気がしている。

はじめての自己開示・その5【教授の洞察】

「世の中がよくなっていく(便利になっていく)ことに対して、あまりよく思ってないよね」

「経歴なんかを見ると普通で変わったことをするタイプではないんだけど、実は人と違うことをするのにあまり抵抗がない人なんだろうなと」

「口角のあがり方が不自然だった」「えくぼもあって、本当はいたずらっ子みたいな笑い方をする人」

 

 

自分で気づいていなかった自分。言葉にされて、ハッとした。
「そう、それが私じゃん」

 

 

うちのゼミの教授は洞察力がすごい。表情、仕草、話し方、文章の書き方、経歴、出身地などから、その人の思考・志向はお見通しだ。心の奥にはあったが言葉になっていなかった思いを掬い上げてもらったことが多々ある。

 

 

私はずっと、強い者の顔色を窺ってきた。どう振舞えば、その中での権力者に、私がそこに存在することを認めてもらえるか。時にそれは親であり、先生であり、クラスの中の影響力がある者であったりした。だいたい、正しいことを平和主義的に訴えれば、周りは私を良い子と認識した。清楚で従順で無垢な女の子の立場を私は確立した。モテるし、いい成績もらえるし、親戚からも褒められるし、この方が好都合だった。

 

これは、私の顔つきが子どもっぽく身長も小さく、かわいらしい感じだったことにより規程された振る舞いだと考察している。私の外見から、真面目で優しくやや弱々しい感じの内面を想像して、周りは接してくる。私もそのように接されて、それが私なのだと思い込み、また接する。こうして私の虚像が、自己にとっても他者にとっても実像として浸透していく。

 

しかし、私は内側の自分と外側の自分にギャップがあることを薄々感じていた。魂ここに在らず、別の人間の着ぐるみをかぶっているかのようだった。自分の人生を生きていない。不自然な笑みが顔にへばりついた。

 

私はこの居心地の悪さから逃れるため、人間に対して無頓着になってしまった。
他人に付き合っても良いことない。

 

教授いわく、一人ひとりの才能を咲かすことが難しいのが日本の教育システムだそうだ。まる、さんかく、しかく、色々な形をした人間を、出来る限り「正方形」に整える作業が行われるのが教育の場になっている。このようなシステムの中で、私は特に立派に”普通の女の子”に成形されたのだと感じる。形を整えられないと見限られるのではという不安が、私にはあった。

 

しかし、つくられた皮をはいだ私は、本当に認められない人間なのか?いま、ここで認められないとしても、別の指標で認められるのではないか?

 

うちの教授は、ゼミに多様な人間を集めることを強く意識して、ゼミ生を選んでいるそうだ。人間集団は「粒ぞろい」より「粒違い」の方が強いし発展できると。
そうして、ゼミには個性が立っている人間同士、好きなように生きて、お互いに「それいいじゃん」と言い合える仲間が集まった。

 

私は、ずっと着ぐるみを脱ぎたかったんだとやっと気づいた。むき出しの私を認めてくれる世界がここにある。このゼミに入っていなかったら、私はまだ「正方形」だったに違いない。

 

きっと「正方形」のまま、居心地の悪さを感じている人は沢山いるのではないか。


枠にはまれない人間が認められる社会をつくるしかない。「普通」であるために自我を殺すことを努力と呼んだきた社会を、変えていくしかない。そう強く思うようになった。

 

私はもっと面白い形に”戻って”、それでも生きていけるんだということを、この社会に対して証言したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数百文字のゼミ志望書。このたった数百文字から、変わりたい私を見出してくれた教授に、深く感謝します。