私は私じゃい!!!!!!

大学4年生。私は私じゃい!!!のマインドで思っていることを書きます。 今が人生の分岐点な気がしている。

はじめての自己開示・その4【家の中は見えない】

ちょっと重くて書くのがしんどい家族の話をする。
心に切り傷をつけながら書いた。

 

上手くいかなかったり、自分へのもどかしさを感じる度、思い出すこと。
思い出したくなくてもフラッシュバックする。トラウマってやつか。

 

私は生まれてこの方、父・母・私の3人で暮らしてきた。
そんな3人のバランスの崩れを私が感じ始めたのは、私が小学3~4年生の頃だった。


まず、優しく厳しく凛としていた母が、何もしなくなった。別人のようになった。「もう何も教えんで大丈夫やねん」と私に言い、一日のほとんどを布団で過ごすようになった。確かに育児に力を入れる時期は過ぎたのかもしれないが、私は母の以前とのギャップに不安になった。母は、元の自分に戻ったのだろう。ただ、そんな母の元の姿は、擁護しがたいほど傍若無人だと私は思った。(具体的に母がどんな性質かは省略する)

 

そんな母の変貌ぶりを見て、父が怒った。
なぜ父に怒りが湧いたのか。その発端を私は知らないが、おそらく家事が行き届いていない家の様子を見て憤慨したのだろう。父の仕事の帰りはいつも23時頃だった。疲れて帰ってきた父がぐうたらな母に怒ったと私は見ている。

 

父と母、お互い不満が募り始めた。
母は、私に「お父さんは何も家事せえへん」と言う。父は、私に「あの人(母)は(人間的に)あかん」と言う。一人娘なので、私を味方につけたかったのだと思う。しかし、私はどちらにも肩入れできなかった。どちらも悪い、お互い様だと思っていた。そんなことより私の感情を大きく占めたことは、「なんでそれを私に言うの?」だった。私が苦しくなるだけで、問題は何にも解決してないじゃん。
私は2人の逃げ場であり、感情の捌け口サンドバックだ。
あ~~痛いな・・・

 

ある日、母が夜遅くまで帰ってこなかった。時刻は23時をまわっていたと思う。小学生の私は、一人で母の帰りを待っていた。いつもならとっくに晩御飯も食べて眠りについていたと思う。遅くなるなら何か言っておいてくれれば一人でご飯の準備もするのに… 遅いな…。私は布団にもぐりこんだ。

ガチャンと扉の開く音がした。先に帰ってきたのは運悪く父だった。ああ、最悪だ。父が激怒してしまう。怖い怖い怖い。父は私に聞く。「おかんは?」「ごはん食べたんか?」

母はその数十分後にケロッと帰ってきた。母が何をしていたか私は知らない。
このあと私はすぐに寝たので、このあと両親がどうしたのかはわからない。

 

 両親の間のひびは、長い時間をかけながら次第に深まっていく。

 

ある時、ついに父は母に手を出した。
母へのイライラが物理的な暴力となって出てしまった。私はその光景を直視できなかった。私は逃げるようにお風呂場に行き、シャワーを浴びたと思う。
あとで母は私に「お父さんに首しめられたねん」と言ってきた。

 

深刻な喧嘩が勃発して、怒鳴り声や喚き声が家中に充満した時、私はトイレの鍵を閉め、閉じこもり、耳をふさいで一人で泣いた。いつも一人で泣いた。私はどうすればよかったのだろう。二人の間を取り持つには、小学生ひとりには荷が重すぎた。

 

その頃、母はよく私に「あんたがおるから離婚してないだけ。あんたがおらんかったら離婚してるわ」と言っていた。私としては、「そんなに精神的に苦しいならさっさと離婚したらいいやん、貧しくてもそれで今より自由に生きれるのならその方がいいやん」と思っていた。私がいるから離婚できないという論調に悲しくなったし、腹も立った。離婚できなくて苦しいことを私のせいにしないでほしかった。こういうことを言わない分、私は父の方が好きだ。

 

私が小学6年~中学1年くらいの時、母の部屋からすすり泣きと誰かに電話する声が聞こえてきた。電話の相手は母の母だった。
「わたし何回コードで首しめようとしたか・・・!」
母が何度か自殺未遂をしたという内容だった。私はその声を自分の部屋で聞きながら、何もできずにいた。

 

そういえば、小学生の頃は晩御飯をほとんど一人で食べた。
太ってたらみっともないという父の発言を受け、母はダイエットをしていた。
そのため母は晩御飯を食べず、私が食べている間はいつもキッチンを片づけていた。父は帰りが遅く、食べるタイミングが合わなかった。よって私は毎日ひとりで食事をした。

たまに3人で食べる機会があったとしても、私は食卓に流れるギクシャクを敏感に感じとってしまう。涙をこらえながら食べるので、せっかくの料理も味はしなかった。

笑ってごはん食べる家庭がよかった。

 

話を戻す。
私の問題は、苦しみを抱えながら誰にも相談できなかったことだ。
家庭内の不穏な雰囲気は私が小学3,4年~高校1年の時まで続き、1~2カ月に1回のスパンで1週間程度の怒鳴り合いの喧嘩が発生していた。何度か学校の先生に相談しようか迷った。しかし、その度にいつも「しばらく経てば納まるから大袈裟にするのは良くない」と思い直し、誰にも言わなかった。「他の家庭でも普通に起きていることかもしれないし、そんなことで相談できない… 私が過度に反応しすぎているだけかもしれない…」という考えに入っていた。相談しなきゃそれも分からないのにね。私は一人で苦しんだ。

 

私が高校2年の時、父は単身赴任に出た。びっくりぎょうてん、その間に両親の関係は劇的に改善した。母は父がいなくなったことで健全な精神を取り戻した。父は一人暮らしで家事の大変さを知ったのか、母への理解を態度で示すようになった。なんと、毎週末2人で旅行に出かけるまでになった!

よかったよかった・・・・♡♡♡

 

 

じゃあないんだよ。

 

私の気持ちの回収が全くもってなされていない。
板挟みサンドバックの苦しみが、誰にも相談できず一人で泣いていた痛みが、
ぜ~~~~~~んぶ 無かったことになって、2人だけ仲良しこよし!?

そんなことあってたまるかよ!
健全な家族で健全な心を育めなかった弊害が私に残ってるんだよ!
人は怒ったら猛烈に怖くて何をしでかすかわからないことがわかったので、自分の気持ちをあまり人に表せなくなった。両親の変容を見て、人を信じられなくなった。まあ元の私の性質もあるんだろうけど。ときたま最悪を思い出して、非常に陰鬱な気分になる。

 

両親にこの話を今更持ち出しても、私の記憶と傷は消えないのであまり意味がない気がする。だから、私はこの心理的痛みと最悪な記憶から精神を分離させて、私は私にとって意味ある時間を過ごすぞ☆彡

まあ腹立つけど!!!この問題を両親と本気で向き合わない限り、2人への心からの感謝の言葉は出ないけど!!!2人の好きなところも全体の2.5割くらいあるから辛い!!!

 

 

 

 

【サンドバックの追記】
父の実家に泊まった際、昼になっても起きてこない母を受け、父方の祖父が私に向かって「あの人はダメだわ」と言った。私は傷ついた。そちらからしたら私の母は他人だが、私にとっては何がどうなってもお母さんだ。それを小学生の私に言ったところで、私が傷つくだけ。私が苦しくなるだけ。あ~お前も、

私をサンドバックにすんな

クソヤローーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!