はじめての自己開示・その3【自分の House】
時にはあきれられるほどの、将来に対する非常に突発的で現実味のない私の自由さは、帰らないといけない家(house)がないということに一つの原因がある気がしている。
私の家は、どこにある?
何年も前に住んでいた土地に訪れて、住処に面影がなくなっていて感傷に浸るみたいな構成の番組や物語はよくある。場所への思いは、普段意識していなくても、言動の端々にあらわれるものだ。故郷の意識は、思っている以上にその人間の行動様式に影響を与える。
進学、就職、結婚、育児。生きていく中で選択をする際、私たちは場所のことを考えずにはいられない。
私には、どこかに「行く」「戻る」というプログラムがセットされていない。
私は、自分のマインドの上では、どこにでも行けてしまう。
私は転勤族だ。
私は、両親の出身地である奈良で生まれた。生後半年で、愛知へ引っ越した。
愛知県の幼稚園に入園し半年で、石川県へ引っ越した。ちなみに、ここまでは聞いた話で、記憶には無い。
石川県では、小学5年生まで過ごした。約8年間生活した賃貸マンションを離れる時、それはそれは悲しかった。空になったマンションの風景を今でもはっきりと覚えている。6分の5のおもいでの詰まった卒業アルバムはもらえなかった。
次は、兵庫県の賃貸マンションに引っ越した。兵庫6年目の夏、高校2年生の時、父は兵庫に家を買った。今もそこに暮らしている。現在兵庫県に来て11年目に突入し、人生の半分を超えた。
奈良には、私が中学生の頃まで、年に2回 ”帰って” いた。奈良は両親の帰る場所だ。奈良には、両親が結婚した際に購入した”マイホーム”がある。
my home は who's home?house があるから そこは home?
…このあたりが曖昧なのだ。少なくとも私は、気持ちの上で奈良は故郷とは言えない。
両親が購入した家は計2軒。兵庫の家は、将来的に売るそうだ。よって、兵庫県にも私の帰る家は存在しなくなる。
物的にも帰る家はなく、質的にも帰りたいと執着する場所がない。また、自動的に帰るべきとされる場所もない。
だから、私はどこにでも行けてしまう。精神的にとてもフリー。両親は、奈良が自分たちにとっても私にとっても帰る場所だと思っているようなのだが、そんな契約交わした覚えはない。
だけど、私は自分がどこに行けばいいかわからなくなる時もある。
私の家は、どこにある?
私の家は、どこにでもある。