私は私じゃい!!!!!!

大学4年生。私は私じゃい!!!のマインドで思っていることを書きます。 今が人生の分岐点な気がしている。

はじめての自己開示・その2【高校での評価基準】

あの時、気づけなかった自分に責任があるのか?

 

私の通っていた高校は、その地域では偏差値トップの自称進学校。”国公立進学主義”を貫き、”文武両道” を掲げるという進学校(仮)の特徴をきちんと持ち合わせていた。

 

当時、自分の核がこれっぽっちもなかった私は、地元の公立中学校から ”行ける範囲内” で一番 ”頭の良い” 高校に入学した。

 

勉強と部活動は衣食住と同列。

私は、入学と同時に学校の王道に乗った。国公立大学を目指し、受験勉強に励んでいた。大学受験で必要な科目のうち、現代文古典漢文英語歴史倫理政治経済生物地学は、センター試験で8割ほど取れた。

 

問題は、数学だった。どれだけ時間を費やしても、成績は上がらなかった。高校3年の定期試験では50点満点中1点をとった。しかもこの1点、あてずっぽうの1点。学内成績は下から数えた方が圧倒的に早かった。
勉強の仕方がよくなかったのか。素質がないにも関わらず、あがいていたのか。おそらく両方なのだろうけど。第一志望の大学入試は、数学の二次試験で一問も解けず終わった。私は、文系の私立大学に進学した。

 

私は、ただ数学の才を使って生きる人ではなかっただけなはずなのに。当時の私の脳内では、国公立に行けない=頭が悪い という強烈な図式が成り立っていた。この図式に囚われてすぎていたため、あるはずだった自分の可能性を閉じ込めてしまった。数学に費やしていた時間を、何か他のものに充てられたはずだ。違う世界に目を向けるチャンスを得られたかもしれない。
((( あの図式が全く真理ではないことに気づけなかったお前が悪いんだろう?やりたいことがある人は、その道に向かって自発的に動いている。数学をやらない選択肢を選んだところで、当時のお前が能動的にやりたいことがあったか? )))

 

 私は、部活動でもやはり王道に乗った。中学校でたまたま入った部活動が非常に厳しかったため、私には熱血魂が刷り込まれていた。部活動を全力でやる人間がかっこいいと思っていたので(ここには部活動を怠ける学生よりも自分は優位に立っているという醜い認識も含まれていたが)、私は学内で一番活動が厳しいとされる野球部に、マネージャーとして入部した。

 

ここで、部活引退までの私の一日。

6:30:起床。風呂に入る。

6:45:自転車で学校へ(全力の爆走。ここで髪を乾かす)

7:00:学校到着。グラウンドをダッシュして部室に行くのが決まり。朝練開始。

8:00:朝練終了。部室から教室まで歩いている間に朝食。

8:25 ~ 16:30:授業中、次の授業の課題を終わらせるため内職。

16:30 ~ 19:00:部活動。マネージャーの職務を全う

19:30 ~ 23:00:塾の自習室で課題、テスト勉強、東〇ハイスクールの授業を受けるなど。気づけば爆睡。(何度肩を揺らされても起きず、ガチで心配されたことがある。)

23:20:帰宅。制服を着たまま、晩御飯を食べながら爆睡。リビングまでたどり着けず、何度も玄関で寝た。

 

自分を見つめる時間のないままこの生活を繰り返していたある時、私は心を病んだ。(病んだ原因は色々あるので、それは追々・・・)
部活動の最中、立っているだけでなぜか涙が出てくるという現象が起きた。心が無だった。自分の存在価値が見いだせなくなった。外界の出来事への反応が薄くなった。笑えなくなった。心が冷たかった。あ~、これが鬱ってやつか…

 

私は、自分のために使う時間を十分にとるべきだった。
しかし、私は部活動を辞める、または肩の荷を下ろして活動するという選択肢を持つことができなかった。
理由は2つ。ひとつは、周囲(学校の先生やクラスメート、部活動の仲間)からの評価が大きく下がってしまうことを恐れていたから。もうひとつは、「途中で辞めたら失礼」という母の言葉があったから。後者もまあ、母からの評価が下がるという点で同じ理由に行きつくのか。

 

私は、辞めることが評価される尺度があることを知らなかった。野球部を選んだのは、一番厳しかったからであって、野球を愛して活動する部員との心のギャップは埋められなかった。自分を偽り続けていた。あの時、自分の苦しみを肯定して、自分が好きなことへの接点を持つことのできる場を探せばよかった。

 

 高校時代の私は、ただ毎日を生きていただけ。息をしていただけ。勉強と部活動に取り組むことは、衣食住と同列のもの。明日のために食いつなぐのに精一杯、今を生きるのに精一杯。未来のことなんて、考える余裕はなかった。

 

   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

世界の広さに気がつけなかったのは、私のせいでしかないのだろうか。
評価される尺度の多角性に気がつけなかったのは、私だけの責任なのだろうか。

 

学力だけを測る偏差値トラップに引っかかり、私は頭の良し悪しの本質を見誤っていた。そのような尺度しかないように見せかけた、学校の評価基準を見直す必要があるのではないか。 

 

 

 

 

 

大学生活を通して、ゆっくりじっくり自己に向き合ってきた。大学も終盤にさしかかり、やっとこれから、自分のやるべきことに自らの意思で進む。