私は私じゃい!!!!!!

大学4年生。私は私じゃい!!!のマインドで思っていることを書きます。 今が人生の分岐点な気がしている。

卒論の足跡・その0【現実の都市】

大学4年の5月。そろそろ卒業論文をどうするか真剣に考えていかねばならない。1月の提出締切日まで、約7カ月半ほどの足跡を残しておこうと思う。

卒論を書くのは案外楽しみだったりする。思考力の欠片もなかった大学1年時の私から、4年かけてどれほど成長したのか目に見えるので。自分がどんなことに関心を向けているのか、それがどのような経験から来たのかに気づく良い機会にもなる。

 

3年の時に一度だけ卒論のテーマを考えていた。その時思い浮かんだのは、「日本の均質的なまちなみをどうにかできないかな~」ということだった。そのタネになる研究をしたいと思った。
きっかけは、留学の経験(参照:大学で何してたっけ・その1【留学】)と、転勤族で複数の町での暮らしを経験したこと。どこに行っても同じ構造の日本の都市性にうんざりしていたから。また、都市的になればなるほど、行きかう人が人生楽しくなさそうな顔だったから。都市で暮らす人間を見て、子どもながらに「どうしてこうもイライラしていて疲れているの?」と思っていた。カナダに行って、個人が個人でまちを彩る光景を目にして、こんなことができるのか!と感動した。


根底にある信念には、生きづらい世の中にノーを言いたいということがある。
卒論でそれを論じるための材料が、今は現実の都市だということ。

 

このモヤモヤを、何の学問でどのように調理するか・・・
それが全然思い浮かばない。リベラルアーツ寄りの学部なので、自由度が高い分、何を材料にしたら良いかを絞るのに労力を要する。
今、パッと思い浮かぶのは以下↓

 

近代化との調理
所属するゼミでは、よく近代化、合理化、欧米化が果たして”良い”ことなのかという議題が挙がる。”私たち”は現在、それが良いとして評価されるべき世界にいるが、それは”そちら側”の人たちによってつくられ仕向けられた世界でしかない…?
都市化は、近代化とともに起こった。日本は、どのように都市化していったのか。そのプロセスを欧米との関係をなぞらえながら論じる、歴史学的切り口。

→ 規模がでかすぎない?しかも誰かがすでに研究していると思うので、何かを考えるヒントにはなるかもしれないが、自分の主テーマにするのは違う。

 

エドワード・レルフ『場所の現象学』との調理
地域社会を理解するという授業の中で、子どもたちの地元意識に関心を持った私に教授がおすすめしてくれた一冊。刊行は1999年。以下、筑摩書房の「この本の内容」からの引用。

人間が生きるということは、身の回りの空間や環境に自分なりの様々な意味を与えることと同値である。自らの直接体験による意味づけによって分節した空間が、すなわち「場所」である。場所は、大量生産と商業主義が深化した現代においては、多様だったはずの意味や環境適合性を欠落させ、お仕着せのものとなり、「偽物の場所」のはびこる「没場所性」に支配される。本書は、ディズニー化、博物館化、未来化などの現代の没場所性の特徴を暴き出し、キルケゴールカミュやリフトンらの文学や哲学の成果も動員しつつ、場所に対する人間の姿勢と経験のあり方を問う、現象学的地理学の果敢な挑戦である。

→ 共感の嵐、参考の一部には大いになる。

 

 

 

具体的なクエスチョンを設定しない限り、上2つをどうにも有効に活用する方法が思い浮かばない!!!
身近から疑問を発見するのが一番やりやすいらしいので、身の回りにアンテナを張っていこう。